学歴社会は悪なのか?①
こんにちは。若松原教室の本田です。
子どもたちに勉強を教える上で避けられない質問があります。
「何で勉強しないといけないの?」「勉強する意味って何?」
本当に頻繁に聞かれる上、非常に答えづらい、厄介な質問です。
果たして正解があるかどうかも分からないこの質問に対し、我々大人は
「勉強がいかに進路に影響するか」とか、「勉強がいかに人格形成に影響するか」などあの手この手で答えてみせます。
もはや学生でない我々が何を言おうとも、説得力をもって彼らの心に訴えかけることはかなわないのかもしれません。
それでもなお、我々も大人として、できるなら上手にこの問いに答えたいものです。
私もこれに対する答えを持ち合わせているわけではありませんが、今回は「自由と平等を学問が維持している」という考え方をご紹介します。
慶應義塾、つまり現慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉は以下のように述べています。
福沢諭吉『学問のすゝめ』より抜粋
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・・(中略)・・・医者、学者、政府の役人、または大いなる商売をする人、夥多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきに由ってその相違もできるのみにて、天より定めたる約束にあらず。」
「人は生まれながらにして貴賤貧富の差はない。身分が高く裕福な人は、生まれによって定められているだけで、そうでない人とは土俵が違うようにみえるが、本質を突き詰めてみると、その差は学問の力の有無によって生まれているにすぎない。」
拙訳で恐縮ですが、概ねこのような内容です。
彼が著書『学問のすゝめ』を著した1872~1876年は丁度江戸時代が終わり明治時代が幕開けた時期です。
当時の明治政府は「四民平等」を掲げ江戸時代の士農工商の身分制度を撤廃しようとしていました。
しかし急速な変革によって名目上の身分差別はなくなったものの、社会的な差別や格差は依然続いていたようです。
従来の価値基準が崩壊し社会的な混乱が起こる中で花開いたのが彼の思想だったわけです。
彼はよく「学問の力で自由と平等を実現しようとした」人物であると評されますが私は誤解だと思っています。
彼は「今の世の中、生まれたときは人間に身分の差も、貧富の差もないはずなのに、実際貧富の差も、身分の差も依然としてある。豊かな人とそうでない人の差はなんなのか?」と考えた結果、それが「学の有無」にあることに気づいたのです。
「今の社会の貧富のカギを握っているのは学問だからみんなも早くそれに気づいて勉強しなさい、勉強して豊かになるチャンスがだれにでもあることの裏返しなんだよ」私は彼の記述をこのように解釈しています。
「学問が自由と平等を生む」、「自由で平等な社会では学問の力が貧富を左右する」これらは似ているようで実際は全く異なるかんだと思いませんか?
身分制度が撤廃されてから、あるいはそれ以前から、豊かさを決定づける要素として「学問」は彼にとって無視できない存在だったのでしょう。
「学問」が自由と平等を生んだかは定かではないですが、たしかに”今の”自由と平等を享受し、維持していくために「学問の力」は大切です。
また何をもって「学問の力」とするかは曖昧で、またそれは時代によって変わってくるのでしょう。
今でいえばAIの知識であったり、PCの技術であったり。
学校教育のいわゆる十科や主要五科目も、いわゆる「実学」に発展していくための型や理論を身に着けるために必要になります。
そしてそれら「学問」が軽視、あるいは憎まれるようになった結果「身分制」や「独裁」の社会が誕生した、という歴史も忘れてはなりません。
世間から「学力」を求められること、それに対し子どもたちが葛藤していること、それ自体が自由で平等な社会を維持できているサインなのかもしれませんね。



