推ししか、勝たん。

こんにちは、西川田教室の岸井です。

進光ゼミナールでは、春期講習が始まりました。普段の50分授業とは違い、75分と長めの授業時間になりますが、生徒さんたちみんな、頑張ってくれています。

きょうは、「親世代と子世代とのジェネレーションギャップもどき」について、書いていきたいと思います。

講習前のとある休日に『推し、燃ゆ』を読みました。本屋さんへ行くのが好きでよく行くのですが、どこの本屋さんでも「芥川賞受賞!」と特設コーナーが設けられている小説です。あまり流行や“話題の~”などには興味がないタイプですが、その日は前日にショックなことがあってか、普段は買わない“特設コーナーの本”を購入しました(ついでに今月美容院へ行ったときに、担当の美容師さんに「読んでないのはやばい」と言われた『君の膵臓を食べたい』も一緒に買ってしまいました。落ち込んでいるときの衝動買いとは怖いものです(笑))

この小説は主人公の女の子が“推し”としている俳優さん・タレントさんが暴行事件を起こしてしまい、ネットニュースで取り上げられ、SNS上で炎上してしまうところから始まります。運動も勉強も苦手で、いつも学校では保健室登校。ただ“推し”のために生きている女子高生。とある飲食店でバイトをしているのですが、もちろんそのお給料も、推しを応援するための活動(推し事[おしごと]と呼ばれます)に使います。そんな話をお客さんと店長としたときに、「もっと現実の男を見ないと」と大人の人たちに言われてしまいます。

 

私は中学生の時に一時ジャニーズにハマり、いわゆる「オタク用語」を覚えました。まず、今の中高生も同じ言葉を使っているのかわからないのですが、まだ覚えているものがいくつかあります。ライブ等イベントには行かないけど、好きなアイドルが出る番組はしっかり追いかけるファンのことを「茶の間」、アイドルとして、ではなく一男性として好きで、お互いこの世に生きている限り、どこかで結ばれるかもしれえない、そんな風にアイドルを純粋な恋心で思うことを「本気愛」。今のK-POPファンの間で、好きなアイドルの名前を入れて、自分が誰のファンであるかを表す「○○ペン」は「○○担」でした。今の中高生も同じように使っている言葉で、同じ人を応援しているファンの方とは仲良くなりたくありません、という意思表示「同担拒否」が生まれたのだと思います。

教室でも筆箱やスマホケースに推しの写真を入れている生徒さんはちょいちょい見かけます。よくわからない人でも「その人、推し?」と聞くと、たくさん説明してくれるので、もはやこのセリフはパワーワードです(笑)

 

この“推し”という概念、保護者世代の層には理解が難しいように思います。まだ「本気愛」であってくれる方が分かりやすいかもしれません。小説の中でも、“推し”から広がる様々な概念について書かれていましたが、それを気持ちで理解するのは時間がかかるのではないでしょうか。

この「保護者層と生徒さん層のジェネレーションギャップもどき」は保護者面談などで話を聞いていると、かなりあるなぁ、、と思います。

 

いちばんよく聞くのは、「子ども(生徒さん)が、音楽を聴きながらじゃないと勉強ができない」というのが理解できない、というものです。私は生徒さんたち側の感覚に非常に近く、何か聞いていないと落ち着きません。高校生でウォークマンを買ってもらってからは、登下校時には手持無沙汰のため、英語の教科書CDを落としたものを、自習時には好きなアーティストの音楽を大音量でイヤホンで聞いていました。ちょっとやそっと声をかけられただけでは気づかないため、よく母や友人に肩をたたかれていたように思います。

確かに、音楽を聴きながら勉強をするよりも、何も聞かないで勉強した方が、学習内容はよく記憶しているという研究結果が出ているようです。しかし、何も音楽がかかっていない状態のまま、「よし、勉強始めるか」という風には私はなりにくいタイプで、むしろ、「理系教科の勉強をするときはこのアルバムを聴く」「文系教科の時はこっち」なんてマイルールをしっかり決めて勉強していたタイプです。

 

また、「将来の夢がない」「やりたいことがない」という子どもが多い、なんてことをよく言われます。教室で生徒さんたちに聞いてみてもそうです。この“問題視”されている事案に対して、どうしたらいいんだろう、、と漠然と考えていたのですが、いま読んでいる本、西野亮廣さんの『革命のファンファーレ』におもしろいことが書いてありました。

いまの「大人」が子どもっだった時代はネット環境なんてものはなく、もちろんyoutuberなんて職業もない、そして現在は無くなってしまっている、もしくは、無くなろうとしている職業がごく普通にあった時代です。「今ある仕事が無くなることがある」なんてことが、全く一般的でなかった時代。

それがどうでしょう。このどんどん仕事が無くなっていく社会を目の当たりにしている子どもたちに、「なりたいものを」と聞かれても、「今は興味があるけど、一生それで生きていけるか分からないし、まず自分が大人になるころに、その職業がある保証もない」となるわけです。この流れを知り、「あ、たしかに。」と納得してしましました。

西野さんは、転職や副業が当たり前になってきているこの社会で、一つのものに対して「これをやりたい!」と思ってしまうことの方が危険だとすら言っています。

もちろん、勉強するためにモチベーションを上げていくために、やりたいことがあることは大事だと思います。しかし、そのような夢などがないから悪い訳ではないことを、生徒さんたちに伝えていきたいなと思いました。

 

子どもたちが成長して大人になっていくために、私たちはサポートをしているわけですが、そんな私たちはその「未来の社会」を知りません。子供たちの立場に立って、子供たちなりの将来像に寄り添いつつ、社会の流れを学び続けたいと思います。

羽なんて、いらない。

こんにちは☀️西川田教室の岸井です✨

春らしくあたたかくなりましたね。南警察署の交差点付近に梅か桜か(花に疎く分からないのですが(笑))咲いているのをきょう見つけ、「小さい春みつけた!」となりました。これからまた、つくしやタンポポが生えてくるのが楽しみです🌸

前回のブログで、ダンボの話をしました。教室でダンボが好きだと言う話をすると「そういえば前もダンボの付箋紙持ってたよね!」と言ってくれる生徒さんがいます。使っていたのは半年ほど前かと思うのですが、それを覚えておいてくれるのは本当に嬉しいですね。

その付箋紙が折り畳み式の台紙についているものになるのですが、一回開くとこんな絵になっています。20210317_124634

タッチがディズニーの映画のものとは違うデザインのダンボです。そしてこの絵で一枚の羽が写っています。この羽は映画の中でも登場するものなのですが、ふと、「この羽の存在って私たち=教室で指導する者たちの存在に似ているな」と思いました。

この羽はダンボが飛ぶときのおまもりのようなもので、飛ぶ練習をするときにいつも鼻の先でしっかり捕まえて飛んでいたものです。

この羽を、映画のフィナーレ=最後のサーカスのときに風に飛ばされて失くしてしまいます。動揺するダンボですが、相棒のティモシーの声援もあって飛び立ちます。もちろんこの回の「空飛ぶゾウ」も成功しました。

教室内で授業をするときは、生徒さんの声のかけやすいところにいたり、こちらからお節介に声をかけに行ったりして、生徒さんが正解へたどり着くサポートをさせていただきます。しかしそれは、ただやり方を丸々ご指導する、ということではありません。生徒さんがご自身の力で解けるように、初めの段階でだけ、「手を貸している状態」と言えるかもしれません。

実際に家庭学習やテストの場では、私たちはいません。この【教室にいるときとは違う状態】にふと不安になってしまうかもしれませんが、私たちが近くにいる間に自分で解き進めてみる力はしっかりついています。

「先生がいないと勉強が進まない」は起こさない。それが、進光ゼミナールの個別指導です。

これからも、「ひとりでやるときは、こんなことに気をつけてね」「こう考えてみてね」といった、自立学習を促す指導を続けていきたいなと、改めて思いました✨

10年目の3月11日

10年前の3月11日、その日は、今日と同じ県立高校の合格発表の日だった。
県立高校の合格発表の日を迎えると、いつもあの日のことを思い出す。

その日は、合格報告をしに来ていた、生徒数人と教室でその瞬間を迎えた。
教室が揺れ、地震だとわかった。危険を回避するため教室の外に出ると、
車は飛び跳ねるように揺れ、電柱は折れんばかりに激しく揺れていた。
その光景を目の当たりにし、尋常ではない事態がおこっているのだと本能で感じた。

揺れがおさまり、教室を確認すると、幸運なことに、電気や水道、ガスも使えた。
電気がついていたこともあり、生徒や講師が自然と教室に集まり、情報を共有し、
とてつもないことが起こっていることを知った。

あの日から10年。
時がたつのは早いもので、少しずつ、私たちはあの日のことを思い出す機会が減ってきている。
私は、あの日から変わらない想いがある。
それは、あの日、何もできなかった後悔だ。

被災した多くの人々が、大変な生活を送る中、日本中から多くのボランティア、
支援が被災地に届けられ、世界中から多くの人々が支援の輪に加わった。
そのような中、私は何をしただろう?
コンビニなどに置かれた募金箱にいくらかのお金を入れるだけで、
何一つ被災した人たちのために行動することもなく、自分の生活を送っていた。
何もできなかった。いや、できたはずなのに、しなかった。
行動する勇気がなかっただけだ。

その後悔が、今も心に残っている。

それから、私は、教室に募金箱を置き、募金活動を行うことにした。
もちろん、生徒たちに強制するようなことはない。
熊本地震、北海道胆振東地震など、日本赤十字社や国の義援金に支援金として送金した。

いまだに、現地に赴き、ボランティアをすることも、物資を直接、自分の手で届けることもできていないが、
あの日の気持ちを忘れずに、募金活動だけは続けて行きたいと思う。
大したことは何も出来ていないが、せめて、少しだけでも役に立ちたい。

そして、生徒たちが、私と同じ後悔をしないように、
支えあい生きていくことの大切さ知り、
勇気ある行動力をもった大人になってほしい。
何もできなかった私でも、反面教師にはなれるはずだ。
だから、伝えなくては。
それは、私の使命だと思う。

羽ばたけ!卒業生!

こんにちは☀️西川田教室の岸井です🌸

きょうは市内中学校の卒業式ですね。長いような短いような義務教育が終わり、それぞれの考えて選択した未来へ進む門出です。わたしが中学1年生だったときの卒業式で、卒業生(ふたつ上の先輩)のひとりが退場直後に「義務教育おわったぜー!!いぇーーい!」と叫んだのが、個人的に「卒業式」といって思い出すエピソードです(笑)

前回のブログでマフラーの紹介をさせていただきましたが、最近バインダーを新しくし、そこにも思い入れがあるので、今回も持ち物紹介をさせていただきます。

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いつも表面には指導する際に使う紙を挟んでいるので、こちらの面を向けて持っているのですが、生徒さん、特に女の子に「新しくしたんだ!かわいい!」と声をかけてもらいます。「そうなのー、ディズニーストアで買ったんだ。何のキャラクターでしょう!」と急に問題を出すと、「ディズニーなんだ!たしかにディズニーぽい!えーなんだろう。。」と考え込む生徒さん。実はアルファベットでしっかりお名前が書いてあるんですけどね(笑)

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答えはダンボです。古きよきディズニー映画の中でわたしがいちばん好きなダンボがバインダーになってあったので、つい即買いしてしまったのです。もちろんダンボが好きな理由もあります。

ダンボは生まれつき耳が大きなゾウです。ダンボの映画の中では子どもはコウノトリが夜中にそっと届けに来るのですが、翌朝自分の近くに眠っているダンボを見つけたダンボママは驚きます。体を全部覆ってしまうほど耳が大きかったからです。

その大きな耳ゆえに笑われてしまうこともあり、引っ込み思案になるダンボ。サーカスでも、これまで先輩ゾウたちがやってきた技は、大きな耳が邪魔になってなかなかキメられません。中略しますが、さまざまな出会いがあってダンボは、これまでゾウでやったことなど無かった「空中を飛ぶ」という芸を身に付けます。

初めは「オンリーワン」であることを恥じていたダンボが、「オンリーワン」である自分を誇らしげに飛ぶシーンがとても好きです。

「平成を作ってくれたのは昭和生まれ。令和を作るのは平成生まれ。」という言葉があります。いままで見たことの無い時代の変化に柔軟に対応し、個々の強みを忘れず、輝いてほしいです。

未来へはばたけ!卒業生!

そして卒業おめでとう!

先を見据えられる人になれるように

こんにちは✨西川田教室の岸井です🍀

宇都宮市内の中学校の生徒さんは、週明けの月曜日

1年生、2年生⇒実力テスト

3年生⇒県立高校入試

を控えていますね。日々の学習・これまでの学習の成果を最大限に発揮してほしいなと願うばかりです。

こちらで時々、小中学校の前で進光ゼミナールのティッシュを配っていることを書かせていただいていますね。先週も某中学校でティッシュを配っていたところ、ある女の子にマフラーを「いつもかわいいですね」と褒めてもらいました。

気に入っていて身に付けているものを褒めてもらえると嬉しいですね。そしてそのマフラー、毎日身に付けているのにはある思い入れがあるので、この際こちらで勝手ながらシェアさせていただきたいなと思います。20210307_153951

このマフラーは、5年ほど前私が大学生だったときに友人から誕生日プレゼントとしてもらったものです。ご存じの方もいるかもしれませんが、私の誕生日は8月です。8月誕生日の私へのプレゼントがマフラー。ここには彼女が考えた理由がありました。

私の通っていた大学は、8月と9月が夏休みになっています。例年はそのお休みの間に予定を合わせ、遊びにいくのですが、この年は私が何かと忙しく予定を合わせて会うことができないでいました。

そんな状況で彼女が考えたロジックはこうでした。「お休みの間に誕生日になっちゃった。でも会えていない。会えるのは10月になってから。10月はまだそんなに寒くないかもしれないけど【これから冬本番!】っていう季節。冬に毎日使ってもらえるものをプレゼントしよう!」

そーんなに大した考えではないかもしれません。ですが今のこと、頑張っても来週のことくらいまでしか考えないでのうのうと生きていた私には、先のことを考えてくれた彼女のプレゼントは衝撃でした。彼女の思惑通り、毎年冬になると毎日身につけて外出しています。

きょうも支度でマフラーをとるとき、彼女のことを思い出して【いま目の前にあることだけじゃなく、もっと先を見据えた人間になろう】そう思いました。

私は持ち物に、そんな自分への願いや思いが入っているものがいくつかあります。また次回この場を借りてシェアさせていただきたいと思います。楽しみにしていただけると嬉しいです✨

きょうも最後まで読んでいただきありがとうございました🍀

言の葉の庭 ※ネタバレ注意

こんにちは、西川田教室の岸井です。

きょうは久しぶりに、大雨が降っていますね。教室に来てくれた小学生の生徒さんが、「学校の靴、明日の朝までに乾くかなぁ」と心配していました。「お部屋の乾燥機があるから大丈夫か!」と笑って帰りましたが(笑)私が小学生の頃は、家に乾燥機などなく、最悪の場合ドライヤーで乾かしていましたが、便利な時代になりましたね。

先日母に誘われて、新海誠監督の「言の葉の庭」を観ました。私の母はマコなり社長のYouTubeチャンネルが大好きで、なんでも、そのマコなり社長が動画内でおすすめしていたんだとか。好きなYouTuberさんの影響をすぐに受ける母は、早速YouTubeでこの映画をレンタルし、テレビに繋いでみんなで観よう!となったわけです。

〈ここからネタバレを含みます〉

この映画は、とある夢を持つ男子高生タカオと、訳あって職場(学校)へ行けなくなってしまった古典の先生ユキノのお話です。このふたりは大都会の真ん中にある庭(新宿御苑がモデルになっています)で初めて会い、雨の日の午前中は必ずそこで会うことになります。初めて会った日から、制服を着ているタカオを見て、自分が行けていない職場=学校の生徒であることに気づいているユキノに対し、自分の学校の先生であることの全く気づかないタカオ。

授業を担当されたことはなかったタカオは、ユキノが自分の学校の先生だなんてことに全く気付かず接します。一方で学校で生徒と問題を起こしてしまい、行けなくなってしまっていたユキノは、てっきり自分は学校中の生徒に知られてしまっていると思っていました。

このユキノの“勘違い”を起こしてしまうことが、特に昨今は多いのではないか、と映画を観ていて感じました。

学校であった恥ずかしいことを文字に起こされSNS上に上げられたり、遊んでいた時の動画や写真を上げられたり、、時間がある時はSNSを漁っている人にとっては、SNSでの世界が、この世界そのもののように思えて、全世界の人に知られてしまっているように感じ、閉じこもってしまうことがあるでしょう。

もちろんそのように拡散することは、法律で規制されているものなので、“そもそも”いけないことです。しかし【世界はそんなに狭くない】ということを、子どもたちには知っていてほしいな、と思いました。

SNSには人口知能(AI)も組み込まれ、その操作する側の興味のありそうなものを次から次へと提案され、世界が広がっていっているように思います。しかし、それでもまだまだ世界のほんの一部なのです。教室で生徒さんたちとTicTokの動画の話などをするとき、「よく“おすすめ”に出てくる~~さんっているじゃん」と話すと、???となることがよくあります。そのときに、「同じTicTokというアプリで動画を見ているだけで、中身は全く違うんだな」と思いました。

 

学校の集団生活やSNSなどメディアに溢れた世界で、自分の思い・願い・夢などを信じぬくことは難しいと思いますが、自分の今見えている世界は世界の全貌ではないこと、また、自分で世界は広げられることを知ってほしいです。

進光ゼミナールへ入社して満2年、全く本を読むことがなかった、映画なども興味がなかった私が、室長岩﨑や他の方々の影響を受けて、さまざまな本を読んだり、映画に触れたりするようになりました。そのおかげで世界がぐっと広がりました。今読んでいる小説もとてもおもしろいので、またブログでシェアしたいと思います。

子どもの評価は学力だけじゃない!!

今回は、学力にまつわることに関して書きたいと思います。

昨今は、学力の高い人が人間的にも上で、

学力の低い人が人間的にも下だという風潮があるような感じがしますが、

決してそんなことはありません。

学力が高くても低くても、一人前の大人になることが重要です。

知識の獲得競争に向いている人もいれば、向いていない人もいます。

知識を活用することに長けている人間もいれば、そうでない人間もいるのです。

子どもの一時期をそういう単純な価値観で縛ってはいけないと思います。

 

学校教育で重要なことは、学力を獲得するということではなく、

学力を獲得する過程の中で、さまざまなことを経験することにあると思います。

学力を獲得することが目的ではなく、学力を獲得しようと格闘する中で、

身につける社会性が重要なのです。

この社会性こそ、一人前の大人になるということにつながっていくのです。

目の前にある課題に対して誠実に対応するとか、

見本になる人の真似をすることで、見本となる中身が自分の中に入ってくるとか、

そういう経験が重要です。

学びの基本動作を学ぶことで、子どもから責任ある社会の構成メンバーとなり、

現実から学んでいけるようになることが重要なことなのです。

単なる学力獲得忠誠競争に勝利することが、学校教育の教育効果ではないのです。

そのことを忘れてはいけません。しかし、昨今の風潮は、

それを忘れてしまっているように思えるのです。

 

学力という基準だけで、子どもを評価してはいけません。

他人に対する共感力や相互扶助的な行動力や問題解決能力などの基準で、

子どもを多元的に評価していくべきなのです。

そうすれば、子どもはきっと今よりも、もっと活き活きするはずです。

子どもを一面的に学力で評価しないようにしたいものです。

 

即席ラーニング? by岸井

こんにちは、西川田教室の岸井です。

きょうは日中とても暖かくなりましたが、日が暮れて一気に冷え込んできました。季節は春になろうとしていますが、まだ冬にも名残があるようです。

わたしは、再発性の腫瘍ができるとある病気で、これまでに手術をしています(突然の告白になり、驚かせてしまい、申し訳ありません(笑))。小学1年生のときと、中学3年生、高校3年生、大学3年生の計4回です。ラスト3回が3年おきで、昨年の夏が最後の手術から3年目だったのですが、検査の結果、お陰様で問題なしでした。

週末両親とゆっくり話す機会があり、なんでか手術の時の話になったのですが、おかしなことが判明したのです。それは、鮮明に覚えている手術・入院の記憶が、高校生の時のことであることです。初めての時のものでも、最新の時のものでもなく、です。

小学生の時のものは、よく当時書いていた絵日記を見返すので、自発的に〈覚えている〉というよりは受動的に〈思い出しやすくなっている〉状態。中学生の時は、その時にその病気だと改めて診断されたこともあり、学校をほぼ毎日早退していたためか、その記憶があります。そして、鮮明に覚えている高校生の時。しかし、大学生の時のことに関しては本当にあまり覚えていないのです。

記憶というのは、新しいものの方が覚えているものです。なのになぜ、大学生の時の記憶がないのか、何をやってたか、ちょっと考えたところ、当時SNSにハマっていたことを思い出しました。

気になったことや、近況をサクッと友人にシェアできる、SNS(当時はFacebookの更新に命を懸けていた気がします)。入院生活の中で思うこと、見つけたことを随時アップしていたのです。

スマートフォン、今や肌身離さず持ち歩く人が多いと思います。その手軽さゆえに、当時の自分としては「あとで見返せるように」という意味も込めて投稿していたはずです。しかしそれが仇となったことが10年弱経った今やっと判明したわけです。

 

自分で記録していれば、しっかり覚えているように思いますが、SNSの持つ「手軽さ」ゆえに、実際にその時の思ったこと等は忘れてしまっていたのです。

これは本当に怖いなと思いました。

 

よく

さっさと覚えたことは、さっさと忘れやすい。

なかなか覚えられず、時間をかけて覚えたことは、忘れにくい。

なんてことを言われますが、本当にその通りです。

 

わたしは教室で、授業の記録を日々書きますが、書いている途中に誤字などは気づき、最終的に誤字はほとんどない状態になります。このブログはスマホでアップすることが多いのですが、いざ見返してみると、誤字や漢字変換ミスがたくさん見つかります。

スマホでの入力は手軽である故に忘れやすい、間違えも気にしない傾向にあるのかなと思います。なにかとめんどくさい勉強ですが、そのめんどくさい行程を乗り越えてこそ、本物の知識が手に入るのです。一緒に頑張りましょう!

p.s.

なぜ高校生の時のことを覚えているのかも改めて考えてみました。私がお世話になっている病院は素敵な先生がたくさんいらっしゃるのですが、高校生の時の病棟の先生とは、ずば抜けて仲良くしていただいていました。その先生の話をよく家族にしていたり、その先生にお話をしたり、していたことが効いているのかな、と思います。

よく「教わったことを人に伝えると定着する」などと言いますが、それもまさにその通り、ということでした。

おもいやり=思い遣り

こんにちは✨西川田教室の岸井です。

先週末はバレンタインでしたね。今年はどこへ行っても「コロナウイルス感染症感染拡大防止!」という言葉を目にしたり耳にしたりする中で、「手作りバレンタイン」よりかは「買いチョコ」が主流になっていたように思います。先週は教室でもチョコレートを来てくれた生徒さんたちに渡していたのですが、持ってきていたお菓子をお礼に、と渡してくれる生徒さんもいて、思いやりの交換ができて嬉しかったです。

わたしは週に3回ほど小・中学校の校門前などで進光ゼミナールのポケットティッシュをお配りしています。毎週決まった時間に決まったところに現れるので、学校の先生・下校中の児童・生徒さんに覚えていただけていて、ちょっとした世間話をしたり、「ティッシュウーマン!」「ティッシュガール!」なんて呼ばれたりもします(笑)

先日も同じようにある小学校へ行ったのですが、通学路パトロールのため出てこられた先生お二人組がお話しをされおり、こんな声が聞こえました。

「なんで物を投げちゃいけないか、って、、ねぇ、」

 

その声を聞いて、「たしかに、いざ説明しろと言われたら難しい題材だな」と思い、自分で考えてみたり、家族や友人にも聞いてみたりしました。出てきた考えは以下の通りです。

 

★物を投げる行為そのものがいけない理由

・物が傷む・壊れるから(もったいない)

・その投げてる人が「物を大事にしない人」「乱暴な人」=「悪い人」と捉えられてしまうから

★人を傷つける行為となるからという理由

・物を投げた先に人がいた場合、その人に当たって痛い思いをさせてしまったり、怪我をさせてしまったりしてはいけないから

・投げる物そのもの、または、投げた物がぶつかった物が他の誰かのであって、壊してしまった場合、悲しむ人がいるから

以上です。

 

全体的に、後者の「人を傷つけることになるから」という方の理由が強いのでは、と私は感じました。

私たちが日頃、無意識に「しないようにしていること」も、誰かを傷つけないための“おもいやり”から出来ているということを改めて思いました。

このお話しを教室に来ている中学生にしたところ、

「物を投げるのは基本的にダメだけど、自分の心が荒れ果ててどうしようもなくなったときは、人がいないところでなら物を投げて(物にあたって)もいい!」という意見がありました。

「コンビニで小銭を投げる人」なんてよく聞きますが、小さい頃から「無意識レベル」でやってこなかったことをやってしまう程心に余裕を持てなくなってしまったのだと思います。

そんな「当たり前のこと」を「当たり前に」できるように、他者への思いやりだけでなく、自分への思いやりも忘れてはいけませんね。

お話ししてくれたMちゃん、ありがとう!

大きく変わる教育課程

去年、今年、来年は、学習指導要領の大変更の年です。

去年が小学生、今年が中学生、来年が高校生と、教科書が大きく変わり、教育課程が大きく変わります。

特に、小学校と中学校の教科的な接続が英語で明確になります。

今まで、小学校と中学校は、教科的な接続があまりありませんでした。

算数は、数学になります。理科社会は、もう一度学び直します。

ですが、英語は、新しい教科として中学校で登場するといった具合に、

小学校と中学校では、あまり継続的に教科を学習するという訳ではありませんでした。

しかし、とうとう、英語は、小学校で触れた英単語は、習った前提で中学校の学習が行われます。

小学校から継続的に学習をすることになるのです。

ここが、大きな事件なのです。

これまで、英語は中学校に入学してから学習を始めても十分に対応できました。

しかし、これからは、小学生のうちから計画的に学習し、

しっかりとした基礎を定着させることが必要となります。

進光ゼミナールでは、4月から中学生になる現小6生は、春休みの間に英語の予習に取り組み、

新教科書内容の学習をスタートします。

小学生から中学生となり、環境が大きく変わる中で感じるストレスがたくさんあると思いますが、

勉強だけは、少しでもストレスなく中学生となれるよう、全力でサポートしたいと思います。