ちょっと長い昔話

17歳の初夏の夜、私は友人と路上に座り込みながら、こんな話をした
「もし、死ぬならどんな死に方がいい?」
何気ない話、何気ない質問、何も意味なんてなかったが、その質問が私の進路を決めた。

人はなぜ死ぬのだろう?生きているってなに?死とはなに?

その答えを知りたくて、私は東洋大学の哲学科に進学した。

そして、東洋大学在学中、死生学を学んでいたときに、
村上春樹の「ノルウェイの森」(上巻)のこの言葉と出会った。

『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

生はこちら側にあり、死は向こう側にある。僕はこちら側にいて、向こう側にはいない。
しかしキズキの死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を)捉えることはできなくなってしまった。
死は生の対極存在なんかではない。死は僕という存在の中に本来的にすでに含まれているのだし、
その事実はどれだけ努力しても忘れ去ることができるものではないのだ。
あの十七歳の五月の夜にキズキを捉えた死は、そのとき同時に僕を捉えてもいたのだからだ。』

あの17歳の初夏の夜から20年が経った今も、生と死についての答えは出ない。
ただ、私にわかることは、人は必ず死ぬということ、そして、
生きているということは当たり前なのではなく、特別なことなのだということ。

だからこそ、特別な今を全力で生きよう。
いつか私が死に捉えられるその時まで全力で生きよう。
今日はそんなことを強く思った。